top of page

​『神の民』

ヨハネによる福音書15章1節~15節

1.「掟」のもつ悪魔性
  キーワードは、「掟」です。父なる神さまと主イエス・キリストとにあいだの「掟」と、独り子なる神イエス・キリストと被造者なる人間とのあいだの「掟」です。
 ただし、わたしたちが想像するような「掟」とは、質的に異なる意味内容をもつ言葉です。その意味を深く考えます。
 わたしたちの世俗世界で、「掟」という言葉にまとわりついている意味あいは、おどろおどろしいイメージなのではないでしょうか。
 深沢七郎の『楢山節考』が映画化された当時、わたしも観に行きましたが、一番印象に残っているシーンは、老人が山に置き去りにされる場面でありません。それよりも鮮烈に脳裏に焼き付いているのは、極限的な貧困の中で食糧を食べ尽くしてしまった男が、隣家の、確か芋であったか何かを盗んで食べたことが、村人に知られるのです。
 「盗癖の血筋は絶たねばならぬ」という村の掟があり、村中の人たちがよってたかって、盗みを働いた家の者たちを、老若男女を問わず生き埋めにしていまうのです。阿鼻叫喚の地獄絵図です。這い上がろうとする子どもや母親を、容赦なくたたき殺すのです。
 飢えという極限状況で、盗みを働くということを、金科玉条のごとく、「掟」だと言って、絶対遵守することで、餓死した裁判官が、戦後日本でもいました。佐賀県出身の山口良忠さんです。
 「1947(昭和22)年10月11日、東京地裁判事の山口良忠(当時34歳)が栄養失調による肺浸潤で死亡した。敗戦後の食糧難にあったこの時代、配給食糧だけではとても足りず、多くの人は食糧管理法で禁じられていたヤミ米を買って食いつないでいた。そのなかで山口は法律違反者を裁く立場からヤミ米を拒否、配給米もほとんど幼い子供たちに与えていたという。47年8月27日に東京地裁で倒れたのち、郷里の佐賀県白石町に帰省して療養していたが、そのかいもなく亡くなった。」 ( 近藤 正高)『文春オンライン』より。
 「悪法も法なり」とソクラテスの言葉を、そのまま遵守して、餓死した判事として全国に知られました。
 『楢山節考』といい、山口良忠判事の餓死といい、「法」あるいは、「掟」には、どこか暗い陰がつきまといます。

2.新しくされた「掟」
 律法主義者たちが、主イエスへの殺意に情熱を傾けたのも、「掟」のゆえでした。わたしたちの人間世界では、「掟」の名のもとに、「殺人」、「リンチ」、「虐殺」が行われてきたばかりか、神の独り子なる神、主イエス様を十字架につけたことも、「掟」を盾にしていたのです。
 このような、人間の罪深い行為を引き起こしてきた「掟」ですので、わたしたちがこの言葉に、何かおどろおどろしい印象を持つのは、仕方のないことなのです。
 しかし、それにもかかわらず、主イエスは、「掟」という言葉を用いて、わたしたち人間に対して、深い恵みを賜ろうとされます。
 「新しい掟」です。ヨハネによる福音書13章34節以下で、主イエスは、このように言われました。先週学んだ箇所です。
    「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。
     わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
     互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
  主イエスは、言葉としては、古今東西の高等宗教ならば、どこででも聞かれる倫理を語っているように見えるのですが、そうではない!ということを先週は、学びました。「互いに愛し合いなさい」という戒めですが、この誡命は文言としてのみ受けとめるのであれば、やはり人間世界の倫理にすぎません。
 しかし、主イエスは、恵みの賜物として与えてくださったのは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という誡命でした。
 「わたしがあなたがたを愛したように」ということが肝心要なのです。
 主イエスが、わたしたち人間を愛してくださったその神の愛は、「十字架の贖い」によって示された「神の愛」でした。既に学んだように、主イエスは,こう言われました。
 ヨハネによる福音書10章18節
    「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
   独り子なる神、主イエスは、「死ぬことがおできになり、かつ再び生きることがおできになられるお方」だということを学びました。実に、この「事」こそが、父なる神から、子なる神イエスがお受けになった「掟」だと言われたのです。
 実は、人は、死ぬことができないと申し上げました。人間は、自ら命を捨てることができない存在なのです。なぜなら、再び命を受けることができないからです。
 命を受けることができるからこそ、死ぬことがおできになるのです。
 実に、わたしたちは、主イエスから神の愛をもって愛されたというのは、主イエスが、この「事」を、この「掟」をお受けになったがゆえになのです。
 命を捨てることができるお方が、命を受けることができるということが、わたしたち人間を愛するということと見事に対応しているというのです。

3.『塩狩峠』の永野信夫さんはなぜ死ぬことができたのか
  永野信夫さんは実在した方です。『塩狩峠』とは北海道にある場所です。そこで実際に起きた出来事を、三浦綾子さんが小説に書きました。
 豪雪地帯です。そこで、蒸気機関車の時代です。峠をくだってゆくときのことです。永野信夫さんは機関士でした。突然機関車のブレーキがきかなくなってしまったのです。 
 咄嗟の判断でした。ブレーキが故障した重い機関車が加速し始めれば、脱線して大事故になることは必定でした。永野信夫さんは、そのとき少しの猶予もなかったでしょう。ほんの数秒のことだったはずです。彼は自らの身を線路に投じて機関車を停めたたのです。
 永野信夫さんは、キリスト者でした。彼は、実に「死ぬことができた」のです。なぜなら、彼はキリストによって、「神の愛」を受けていたからでした。
 キリストの愛が、永野信夫さんの内にあったからです。
 カルト宗教の人には、この愛がわかりません。
 たとえば、統一原理では、人間は「人格完成」しなければ「天国」には入れないと説いています。「ああ、そうか。人格完成して愛の人にならねばならないのか」とただ漫然と、そういう信じ方をしていたとしたら、どうでしょうか。
 永野信夫さんは、一瞬の猶予もなく、躊躇せずに身を投じたのです。
 「待てよ、わたしは、まだ人格完成したという実感などさらさらないぞ。このままで死んでしまうじゃないか。このままでは天国にはいれないなあ、どうしよう・・・。」などど考えているうちに、機関車は脱線し、乗客もろともに死んでしまったことでしょう。
 肝心なのは、キリストの愛に、自分自身がとどまっていることだと主イエスは言われました。
 「キリストの愛にとどまる」というのは、まことの葡萄の木でありたもう主イエスに「つながる」という言い方でも示されています。
 「とどまる」、「つながる」という主イエスの言葉はをかみしめましょう。
 
4.新しい「掟」が対応する 
  父なる神と独り子なる神主イエスの「あいだ」の「つながり」と「とどまること」が、神とイエスのあいだの「掟」でした。
 主イエスが神から賜った、この「掟」が、独り子なる主イエスがわたしたちに賜った、「新しい掟」の、いわば源なのです。
 主イエスにつながることが、父なる神につながることなのです。
 主イエスの愛にとどまることが、父なる神の愛にとどまることになるのです。
 この「対応」関係が現実となっていることが、「互いに愛し合う」という現実を意味しているのです。
 
5.神の民とは、父なる神と子なる神が「つながり」「とどまること」が現に起きている者たちの群れ
  主イエスは、言われました。
    「私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。」
 主は、主が語った時点で、既に聞いたわたしたちが、「清くなっている」と言うのです。この言葉は、言葉を聞いて、聞いた言葉を守るということではないというのです。主イエスによって、言葉が語られたその瞬間に、既に「清くされる」という現実が、わたしたちには生起しているというのです。ですから、もはや、人間世界の「掟」なのではない、まったく質的に異なった「掟」、イエスとの交わりにとどまる者は既に、「清められている」、神の愛に満たされている、そういうことが「掟」という言葉で表されているのです。
 
  わたしたちは、聖書の言葉を読むという瞬間に既に、罪が清められている。
 主は、こう言われたのです。
 だから、この恵み、このつながり、このとどまりから離れることなく、この世界を生きてゆこうではありませんか。  アーメン

bottom of page